「鉄の馬」ルー・ゲーリッグの物語:栄光のヤンキースと共に

出典;Wikipedia
1923年、ニューヨーク・ヤンキースに入団したルー・ゲーリッグは、当初は控え選手として静かにその才能を磨いていた。だが、1925年6月2日、正一塁手ウォーリー・ピップが頭痛で欠場したことで、ゲーリッグに出場の機会が訪れる。その日から始まった2130試合連続出場の記録は、彼の不屈の精神と頑丈な肉体を象徴するものとなった。
ヤンキースは1920年代から1930年代にかけて、ベーブ・ルースとゲーリッグを中心に第1黄金期を築いた。特に1927年の「殺人打線(Murderers’ Row)」は伝説的で、ゲーリッグはこの年に打率.373、47本塁打、175打点という驚異的な成績を残し、ルースと並ぶ主砲としてチームを牽引した5^。

出典;Number Web ルース(右)とゲーリック(左)
1931年には打点184というMLB歴代2位の記録を達成し、1934年には三冠王に輝いた。彼は本塁打王3回、打点王5回、200安打以上を8回記録し、ヤンキースの勝利に貢献し続けた。その打撃はまるで雷鳴のように球場を揺らし、彼の存在は「静かなる英雄」と称された。
ゲーリッグはまた、1931年と1934年の日米野球で来日し、日本の野球ファンにもその名を知られることとなった。彼の打球は海を越えて、日本の球場にも轟いたのだ。
しかし、1938年頃から彼の体に異変が現れ始める。翌年、自ら連続出場記録を止める決断をし、診断された病名は筋萎縮性側索硬化症(ALS)。後に「ルー・ゲーリッグ病」と呼ばれるこの病は、彼の身体を徐々に蝕んでいった。
1939年7月4日、ヤンキースタジアムで行われた「ルー・ゲーリッグ感謝デー」。彼はマイクの前に立ち、こう語った。
「私はこの世で最も幸せな男です。」
その言葉は、野球を超えて人々の心に深く刻まれた。
そしてその年、彼は引退からわずか数ヶ月で特別選出により殿堂入りを果たす。これは史上3人目の快挙であり、彼の偉大さを物語っている2^。
ルー・ゲーリッグの物語は、記録にも記憶にも残る。
彼の打球はもう飛ばないけれど、その魂は今も、野球を愛するすべての人の心に生き続けている。
1920年代から30年代にかけて、ニューヨーク・ヤンキースはベーブ・ルースとルー・ゲーリッグを中心に「殺人打線」と呼ばれる圧倒的な打撃力で、メジャーリーグを席巻した。ゲーリッグはその中心で、三冠王、MVP2回、打点王5回、通算1995打点という記録を残し、2130試合連続出場という鉄人ぶりで「鉄の馬」と呼ばれた。

出典 Wikipedia ジョージシスラー
一方、同じ時代に静かにヒットを積み重ねていた男がいた。ジョージ・シスラー。セントルイス・ブラウンズの一塁手として活躍した彼は、1920年に打率.407、257安打という驚異的な成績を残し、当時のMLB年間最多安打記録を樹立した。さらに1922年には打率.420を記録し、2度の4割超え、首位打者2回、盗塁王4回という華々しい実績を持つにもかかわらず、日本ではほとんど知られていない存在だった。
そんなシスラーの名が再び脚光を浴びたのは、2004年の夏。シアトル・マリナーズのイチローが、シスラーの257安打を84年ぶりに更新し、262安打という新記録を打ち立てたのだ。その瞬間、イチローはスタンドにいたシスラーの長女フランシスさんと固く握手を交わし、記録を超えた者が記録を築いた者へ敬意を示す、心温まる場面となった4^。
シスラーの孫ウィリアム・ドラッコルマンさんはこう語った。
「祖父は自慢話をしない人でした。でも、イチローのおかげで、彼の名前が再び世に出て、みんなが祖父のキャリアについて語ってくれた。それが何より嬉しかった。」
ジョージ・シスラーは、打撃の美しさと職人のような精密さで野球を彩った。ルー・ゲーリッグが力強さと不屈の精神で球場を揺らしたように、シスラーは静かに、しかし確かに、野球の本質を体現していた。
二人の物語は、時代を超えてつながっている。
そしてその記録は、今も野球を愛する者たちの心に、静かに息づいている。

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